Top Experience 280年、畳と生きる——久保木畳店が問い続ける、日本の美の継ぎ方
280年、畳と生きる——久保木畳店が問い続ける、日本の美の継ぎ方

280年、畳と生きる——久保木畳店が問い続ける、日本の美の継ぎ方

畳を踏んだ瞬間、誰もが少しだけ息を緩める。い草の香り、足裏に伝わる柔らかな弾力、光の当たり具合で変わる緑の濃淡。それは機能というより、身体の奥に刷り込まれた記憶のようなものだ。福島県須賀川市で創業から280年以上を重ねる久保木畳店は、その記憶を次の世代へ、そして世界へと手渡すために、今日もい草と向き合っている。

継ぐことへの覚悟、素材との対話から始まった

久保木畳店十五代目・久保木史朗氏は、はじめから家業を継ぐつもりではなかった。だが、父から届いた一通の手紙が、その道を変えた。そこには業界の苦境が率直に綴られていた。読み終えたとき、「畳を絶やしてはならない」という思いが静かに芽生えた。

代を継ぐと決めた久保木氏がまず向かったのは、い草の産地として知られる熊本・八代だった。そこで初めて、生産農家の仕事と真正面から向き合った。刈り取り、泥染め、乾燥——一つひとつの工程に、長い年月をかけて磨かれてきた知恵と手間が詰まっていた。それを知ってから、素材を選ぶ目が変わった。

最高級の畳表は、安価なものと比べて厚みがあり、耐久性にも大きな差がある。日焼けを経ても黄金色の美しさを保つその姿は、時間を味方につけた素材の強さを示している。しかし市場では「安価であること」が選ばれる理由になりがちだった。久保木氏は焦らず、品質を示し続けることを選んだ。職人、生産者、使い手——三者がともに報われる関係を築くために。

形を変えることが、文化を残すことだ

久保木氏が口にする言葉がある。「伝統を残すには、形を変えて現代に順応させていくことが必要だ」と。その言葉を最もよく体現しているのが、畳コースターの誕生だろう。

ある高級寿司店からの依頼をきっかけに生まれたこの小さな正方形は、和室を持たない空間にも畳の趣をそっと持ち込む。い草の香りを纏い、グラスや器の下に静かに佇む姿は、見る者に日本の奥行きを思わせる。口コミだけで、国内外の飲食店や個人のもとへと届くようになった。久保木氏はそれを「営業した結果ではなく、欲しいと思ってもらえるものづくりをした結果」と語る。

置き畳の展開も、同じ発想から生まれている。洋間のフローリングの上に敷けるよう設計されたこの畳は、海外の住宅にも自然になじむ。畳の語源は「畳むもの」——もとは板の間に敷く薄いものを指していた。その原点に返ることで、新しい可能性が広がった。

福島・須賀川の畳ビレッジ、そして東京・銀座の店舗では、香りを嗅ぎ、足で踏み、手で触れ、自ら制作体験もできる場を設けている。靴を脱いで畳に腰を下ろした瞬間、来訪者の表情がほどける。い草が持つ力は、言葉よりも先に人の身体に届く。

畳が世界の扉を開くとき

久保木氏が家業を継いでからの5年間で、久保木畳店の畳は30か国以上へと届くようになった。海外展開の糸口となったのも、畳コースターだった。世界各地に出店する日本の寿司店へ納めるうちに、そこを訪れる外国人客の目に止まり、「自宅にも欲しい」「インテリアとして使いたい」という声へとつながっていった。

東京・銀座の店舗は、その戦略の要でもある。世界中から訪れる旅行者が、小さな畳を手に取り、その香りに顔をほころばせる。「この感覚を持ち帰りたい」——そう思ってもらえる瞬間を積み重ねることが、久保木氏の描く世界への歩みだ。

「世界中の人が、畳を素敵だと思う未来をつくりたい」。その言葉には、使命感と夢が等分に混ざり合っている。国内でシェアを競うのではなく、畳そのものの価値を高め、新たな市場を育てていく。2020年1月、スーツケース一つに畳を詰め込んでニューヨークへ向かった日から、その挑戦は続いている。

ある夜、久保木畳店の畳コースターが、日本酒の香りと共にゲストの前に置かれた。い草の穏やかな香りと、グラスから漂う酒の余韻が静かに重なったとき、そこにいた誰もが、日本という土地の奥行きを五感で感じたという。和の文化が、異なるかたちで呼応し合う瞬間だった。

香りと手仕事が紡ぐもの

い草の香りは、記憶と結びついている。幼いころ祖父母の家で嗅いだあの匂い、夏の夜に畳の上で聞いた虫の声。それはデータにも数値にもならないが、人の心に深く刻まれる。久保木畳店がものづくりを通して届けたいのは、そういう種類の豊かさだ。

機能性でも合理性でもなく、日本人が長い年月をかけて育ててきた「畳の良さ」——断熱性や柔らかさといった実用の先に、言葉にならない情緒がある。それを形に宿らせ、現代の暮らしに、そして世界のどこかの部屋に届けること。280年を超えて続く久保木畳店の仕事は、そのひと言に集約される。

伝統は守るものではなく、手渡していくものだ。久保木史朗氏の仕事を見ていると、そう思わずにいられない。

有限会社久保木畳店

1740年に福島県須賀川市の地で創業された伝統ある老舗畳店。和室を持たない方にも畳に触れていただきたい思いで畳コースターなどの畳小物の製作も手掛ける。畳の良さを日本国内だけでなく、世界中へ発信されています。

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